早稲田大学競走部の主将を目指した八木勇樹選手「無我夢中で駆け抜けた瞬間」をふり返る
Aug 20, 2016 / MOTIVATION
Apr 26, 2019 Updated
「自分の信念を貫いて可能性に賭けてみたい」
日本の陸上長距離界において、エリート街道を渡り歩いた“一人の勇者”が新たな道を歩み始めました。
その人の名は八木勇樹さん。
八木さんは、西脇工業高校時代にケニア人留学生を破って国体で優勝。
早稲田大学では出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝の学生三大駅伝で3冠を達成。
早稲田大学競走部の主将として臨んだ関東インカレ、全日本インカレではチームをまとめあげ、総合優勝。
前人未到の5冠を達成しました。
しかし、華々しい実績の影には挫折や葛藤、自問自答の日々が続いたといいます。
そして、実業団選手として所属していた旭化成を2016年6月末に退社し「独立」の道へ。
株式会社OFFICE YAGI代表取締役として、YAGI RUNNING TEAM所属のプロランナーとなりました。
インタビュー前編では、旭化成を退社した今の心境、基礎を作り上げた中学時代のエピソード、全国の頂点の立った高校時代の回想についてお聞きしました。
(前編はこちら)
今回は、早稲田大学競走部時代の葛藤と飛躍の軌跡を辿るとともに、2020東京オリンピックへの想い、日本の陸上長距離界の変革に向けての取り組み、その先の未来へのビジョンを伺いました。
自身を前進させたキッカケ
—高校3年生での全国高校駅伝で失意のどん底へ。そこから始まった早稲田大学競走部での競技生活はどうでしたか。
大学時代を振り返ると、レースで力を発揮出来なかった事が多かったです。
入学前の全国高校駅伝でのブレーキがトラウマとなり、そこからイップスに陥りました。
早稲田大学競走部での日々の練習は問題なくこなせていたのですが、レースでは身体が鉛のように重くなって不甲斐ない結果に終わる。
インカレや箱根駅伝などで、大会が終わってから競走部のOBを前にしての報告では、自分自身に失望していました。
さらに、故障も重なってうまく走れない時期が続きました。
そうして、大学での競技生活の半分が過ぎていきました。
“このままだといけない”私はそう思い、大きく成長し、前進するために、そして、早稲田大学の時代を築くために競走部の主将を志しました。
とはいうものの、競走部の主将になる為にはチーム内の仲間からの全面的な信頼と、競技面での実績が必要でした。
私は大学3年の秋まで、高校時代ほどの実績が全く残せていませんでした。
この時ばかりは、私にとっての正念場で、とても大きな危機感を覚えました。
そんな状況で迎えた、3年生での全日本インカレでは1500mで準優勝、5000mで5位入賞。
全日本インカレでの結果が認められ、競走部の主将を務める事となりました。
—主将を務めてからは、出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝の学生三大駅伝で3冠。さらに関東インカレでは1500mで優勝しチームも70年ぶりの総合優勝。さらに全日本インカレでもチームは総合優勝し、前人未到の5冠を達成しました。とても素晴らしい実績ですね。
ありがとうございます。
主将に就任する直前の出雲駅伝は3区で区間賞を獲得し、チームも優勝。
大学時代では始めての区間賞でした。
その勢いで全日本大学駅伝も区間3位ながらチームは優勝、学生三大駅伝の3冠に王手をかけました。
そして、迎えた3年生での箱根駅伝当日。
私の大学時代の思い出のレースです。
1年、2年と優勝に届かなかったこの3年生での箱根駅伝で、私は9区を任されました。
復路の7区、同学年で最も信頼を置ける相棒の三田裕介がその差を大きく広げる力強い走りで先頭をキープし、9区を走る私の背中を押してくれました。
私は、直前までなかなか調子が上がらず、本来の力を出すことは出来ませんでしたが、今までやってきたことを信じ、仲間の想いがこもった襷を、何が何でも先頭で渡さなければという思いで走りました。
競走部の主将として、そして選手として大会新記録での総合優勝、三冠達成。
感慨深いものがありました。
—主将が結果を出してチームを盛り上げる。かつて、八木さんが高校時代に思い描いた“自分の力で早稲田を復活させる”とう言葉が叶いましたね。
主将になって身も心も引き締まったように思います。
当時はチームメイトの中でも、特に同期をはじめ、礒先生 (早稲田大学競走部総監督)、渡辺監督、相楽コーチなどたくさんの方にサポートしていただきました。
このような結果は私一人の力で達成出来たものではありません。
そして、4年生での関東インカレの1500mで、長らく遠ざかっていたトラックでの個人タイトルを獲得。
この時は大会初日の最初のトラックの決勝種目で“俺が優勝してチームを勢いづける”と気合いが入っていて無我夢中で走りました。
トラック種目、フィールド種目ともにポイントを重ねて、関東インカレで70年ぶりの総合優勝を達成出来ました。
主将として心掛けていたのは、選手が力を発揮出来るようにサポートするという事でした。
また、自分が所属していた長距離ブロックだけでなく、他の種目の選手との交流やそれらを促すように心掛けていました。
全日本インカレでは、私は故障で出場出来ませんでしたが、ここでもチームは総合優勝を果たし、5冠を達成することが出来ました。
その後は長引く故障で駅伝シーズンを棒に振りましたが、大学での4年間の競技生活は私にとって、仲間と共に築いたかけがいのないものとなりました。
未来の陸上長距離界のために
—中学から続けてきた陸上競技ですが、この度、八木さんは旭化成を退社し、26歳で独立しました。これからのYAGI RUNNING TEAMでの活動についてお聞かせください。
我々が目指すものは、今まで日本が築き上げて来た陸上長距離界のノウハウからの脱却です。
昔はオリンピックや世界選手権でも好成績を残していた日本代表選手が近年では不振に陥っています。
今あるやり方から脱却して、各研究機関や大学などとの連携を図ります。
そうやって試行錯誤を繰り返しながら、新しいトレーニングメニューの研究、運動データの蓄積・記録、選手各々にあった指導のノウハウの確立。
我々が今取り組まなければならない事は山積みです。
また、自らも選手としてこれから取り組むマラソンへ向けて、データの記録を行います。
その他、運動生理学やトレーニング理論の応用など、私もまだまだ学ばなければなりません。
そこから得たものを最大限、チームのノウハウとしても活用していきます。
—選手としても成長するだけでなく、いち研究者としての成長が必要な訳ですね。
はい。YAGI RUNNING TEAMでは、選手の私以外にも、市民ランナーの底上げを目標にしています。
強いては、美容・健康への結びつきも含めて、それぞれの人にあったより良いランニングライフの提供を目的としています。
真剣に自己記録向上に向けて取り組むランナーもいれば、楽しく走りたいというランナーもいる事でしょう。
今あるランニングチームの多くは、記録向上に向けてのトレーニングはもちろんですが、走ることで仲間が得られる、練習を一緒にこなす事が出来た、というものが多いと思います。
私が考えるのは、それに加えて、各々のランナーの為にそれぞれにベストな練習メニューの提案や、時には食事の指導もすること。
そして、練習や指導を効率化、均一化することなく、各々が目指す目標へのサポートを第一に考えて、チームを運営していく事が目標です。
厳しい練習だけでなく、楽しく走るファンランニングの日も設けるつもりです。
また、かつて自分がそうであったように、実業団選手と市民ランナーの垣根をなくしたい。
そうやって共存する事によって、市民ランナーはトップ選手との交流に刺激され、オリンピックを目指す実業団選手も、サポーターが増えることによってより一層の好循環が生まれるのかもしれません。
—今後の抱負をお聞かせください。
選手としては、まずはトレーニング理論やトレーニング環境を確立していきながら、マラソンへのシフトチェンジを図っていきます。
初マラソンを今年の11月頃に予定しており、その後の東京マラソン2017で、ロンドン世界選手権の日本代表を目指します。
そして、4年後の2020東京オリンピックのマラソンでの金メダルが最大目標です。
高校入学時の最初の授業で、自分の人生で達成する目標を書く授業がありました。
私は、国体で優勝、箱根駅伝で優勝、オリンピックで優勝。
当時、この3つの目標を掲げました。
私は中学時代から、信念を持って行動し目標を実現してきました。
当時言ったことで、周囲が笑っていたような大きな目標を実現する。
実は、今の自分の状況は中学時代に漠然とですが、考えていたことなのです。
「将来、プロとなって世界のトップ選手と勝負する」現段階では、当時思い描いていたストーリーからはだいぶ遠回りしていますが。。(苦笑)
国体で優勝、箱根駅伝で優勝、あとは、オリンピックでの優勝を目指すだけです。
そして、その先の将来には、次世代の選手の育成システムの構築、市民ランナーを含めてのより良いランニング環境の整備。
まず、大きな目標は2020東京オリンピックですが、その先のビジョンもしっかりと実現出来るように、私の人生をかけて、覚悟を持ってやっていきたいと思います。
今出来る事から、自分が動いて変えていく。
そう簡単な事ではないですが、確固たる覚悟を持って、信念を持って一つ一つ積み上げていきたいと思います。
プロフィール
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