高校時代に世界大会出場も箱根目指さず。孫正義さん卒業の米大学に進んだ岡田 健選手の考え方
Jul 22, 2016 / MOTIVATION
Apr 26, 2019 Updated
アメリカ西海岸カリフォルニア州のサンフランシスコ湾東岸にあるバークレー。
アウトドアブランドのザ・ノース・フェイスが1968年に創業した場所として知られています。
そのバークレーで奮闘する一人の若き日本人ランナーがいます。
彼の名は、岡田 健さん。
岡田さんは高校時代に世界大会出場の実績を持ちながら、選んだ進学先は箱根駅伝強豪校でもなく、実業団でもなく、アメリカ留学の道でした。
2015年3月に、國學院久我山高校を卒業しその後、カリフォルニア大学バークレー校 (University of California, Berkeley:以下、UCバークレー)に合格、2015年の夏に渡米しました。
今回は、岡田さんの中学時代と高校時代の陸上競技と勉学の両立、世界ユース選手権で感じた世界レベルとの壁、さらに全国高校駅伝を目指すチームの駅伝主将を務めながらもそれと並行して努めたアメリカ留学への猛勉強。
それらの苦悩や葛藤について伺いました。
文武両道の道へ
—岡田さんは中学、高校と陸上競技で素晴らしい実績を残しました。その一方で勉学にも励み、文武両道を成し遂げましたね。
中学3年生の頃に部活の先生が変わってからスピード練習を多くするようになって、陸上競技の成績が急に伸びました。
そして、その年に全国大会で入賞するレベルまで到達することが出来ました。
そうやって成長していく過程で陸上競技だけでなく、勉強も同じように頑張りたいと思っていました。
高校受験の際には、全国インターハイや全国高校駅伝に出場出来るような強豪校でなおかつ、勉強に力を入れている学校、ということで國學院久我山高校への入学を志望しました。
高校へ入学してからは、自宅から片道1時間40分の通学生活で最初のうちは大変でした。
それでも、練習では陸上競技部の先輩の背中を追うことで、記録がどんどん伸びていきました。
同時に、勉強にも真剣に取り組んでいきました。
—高校2年時には世界ユース選手権の3000mで8位入賞。その時に、世界のトップ選手との“大きな壁”を感じたと思います。それは岡田さんにとって、どういったものだったでしょうか。
世界ユース選手権の男子3000mのレースでウクライナに遠征をしました。
予選を通過し、決勝のレースではなんとか8位入賞することが出来ました。
しかし、決勝のレースよりも予選のレースのほうが僕にとっては衝撃的でした。
決勝で優勝したヨミフ・ケジェルチャ選手 (エチオピア)と予選 (赤と白のユニフォームが岡田さん)でも同じ組で走ったのですが。最後の1周の400mで、50mも離されてしまいました。
僕は、余裕を持ってラスト1周、「よし、ここからだ!」と思っていたのですが、先頭は、もうそれは、異次元のスピードでした。
僕はラスト1周を60秒ちょっとで走ったのですが、ケジェルチャ選手は約53秒で走っていたと思います。
僕が実際に目の当たりにした、日本では考えられないスピードでした。
とてもとても衝撃的でした。
双子のタスキリレー
—世界での経験を積んでからは、全国インターハイ、全国都道府県対抗男子駅伝を経験しながら大学への進路をどうお考えでしたか。
僕は元より箱根駅伝のファンでしたし、箱根駅伝への憧れはありました。
そんな中で、近年、アメリカの陸上競技の中長距離は、トレーニング理論やスポーツ科学も進歩していることから世界的にみても結果を出していました。
日本の大学で箱根駅伝を目指す事も素晴らしい目標ですが、アメリカの大学での競技生活で切磋琢磨して“今よりもっと強くなりたい”、僕が世界大会で世界のトップレベルとの大きな壁を感じてから、少しずつその気持ちが芽生え、進学先の選択肢の一つとなりました。
國學院久我山高校の陸上競技部の顧問の先生に相談して、その頃からアメリカ留学を本気で考えるようになりました。
しかし、アメリカの大学といってもそう簡単に入学できる訳ではないので、高校で受ける普段の授業に加えて、部活をしながらも塾に通って勉強を積みました。
もともと、英語は得意だったのですが、アメリカ留学への受験勉強を少し甘くみていたのかもしれません。
そうやって、勉強での目標の修正を加えるなどして、忙しい日々が続きました。
—そのような中で、アメリカ留学に向けての高校3年時は体力的にも精神的にも大変でしたか。
高校3年の時に僕は陸上競技部の駅伝主将になりました。
駅伝チームを引っ張っていく立場となりましたが、その時には既にアメリカ留学を決意していました。
塾がある日は練習を調整していただき、自分なりに精一杯尽くしました。
朝から学校に通い、塾からの帰宅が23時30分ぐらいになり、また次の日に通学する為に5時に起床。
当時、自宅から高校まで片道1時間40分ほどの通学をしていて、とてもハードでした。
そんな中でもなんとか、全国インターハイは1500mで決勝の舞台まで駒を進めました。
秋の駅伝シーズンになると、その年は東京のライバル校どうしのトップ争いが激化し「このままではヤバいぞ」と危機感を持ってチームを一つにまとめました。
そして、駅伝主将としてチームを鼓舞しながら、全国高校駅伝への切符を目指して東京都高校駅伝に臨みました。
その日は例年に無いぐらいに、國學院久我山を応援するOBや保護者、サポーターが一丸となって優勝を目指していました。
沿道からの声援も非常に大きく、僕もその事は肌で感じていました。
1区ではチームメイトが3位で2区の選手に襷を渡しスタートしました。
僕が走った4区に襷が渡る時には2位に順位を上げ、僕は走り出しました。
1年、2年と手が届かなかった全国高校駅伝への切符、みんなの想いを襷に乗せて精一杯走りました。
僕はそこで区間賞を獲得し、5区の望 (双子の弟の岡田望さん)に襷を渡しました。
望とはレース前に「笑顔でタスキリレーしよう」と話していました。
望も区間賞を獲得し、チームは6区でついに先頭に立ちそのまま逃げ切りゴールへ。
歓喜の瞬間を皆で迎えました。
駅伝主将としてもそうですが、選手としてもチームメイトと、そして弟とともに目標を達成できたことが本当に嬉しかったです。
双子でのタスキリレーは中学時代から数えてこれで4回目だったのですが、この時が一番思い出に残っています。
—勉強との両立で忙しい日々が続き、競技に100%打込めるといえないなかでの快走でしたね。流石です。本番の全国高校駅伝はどうでしたか。
12月の全国高校駅伝では最長区間の1区を走りました。
しかし、大ブレーキでチームには本当に迷惑をかけました。
レースの後、自分を激しく責めました、とても辛かったです。
今思うと、全国高校駅伝の舞台に向けて、ここをもうちょっとこうしたらよかった、などと後から思い残すことが少しありますが、自分なりには精一杯尽くしました。
駅伝主将として1年間経験させていただきましたが、有終の美を飾れず残念でした。
それでも、チームメイトは僕を責める事無く、駅伝が終わってからは、僕のアメリカ留学へ向けて背中を押してくれました。
そして、弟の望は早稲田大学への進学が決まっていたので、“あとは自分の番だ”と勉強にも熱が入りました。
念願叶ってアメリカへ
—岡田さんは全国高校駅伝を終えて、アメリカへの受験へ猛スパートをかけて高校卒業後に見事、UCバークレーに現役合格されました。UCバークレーといえば、ソフトバンクの孫正義氏が卒業したアメリカの名門大学ですね。超難関大学への大学受験はどのようなものでしたか。
アメリカの大学に入学するにあたって、TOEFLとSATのスコアが必要で、それに加えて高校時代の成績や、スポーツや課外活動などの実績も含めて総合的に選定されます。
僕の場合、陸上競技での世界大会出場の実績がありましたが、それだけではダメで、英語の勉強がさらに必要でした。
もともと英語は得意だったのですが、高校の中で英語が得意で、常に上位であるというレベルでもそう簡単に通用しません。
僕には、さらなる努力が必要でした。
全国高校駅伝が終わってからは受験勉強の猛スパートをかけ、高校卒業後の2015年の5月に、志望校であったUCバークレーに合格することが出来ました。
高校時代を振り返ると、様々な経験を積みました。
そのなかで、有坂先生をはじめとする國學院久我山の顧問の先生方、チームメイト、そして家族もそうですが、僕を支えて下さった皆さんには本当に心から感謝の気持ちで一杯です。
—まさに努力の賜物ですね。
ありがとうございます。
喜びも束の間、夏からの渡米に向けての準備をしなければならなかったので、色々と大変でした。
高校時代をともに過ごした陸上部の皆とは、しばらく離れ離れになるけれども「お互いそれぞれの場所で頑張ろう」と約束しました。
そしてアメリカに飛び立つ日、成田空港には中学時代からの親友にしてかつて陸上でのライバルだった、平岡アンディが見送りに来てくれました。
その時は僕を見送りに来てくれたのですが、その後、彼もアメリカで僕と同じように夢を追いかけています。
彼は今、アメリカでプロボクサーとして頑張っていて、今でもたまに連絡を取り合っているのでとても励みになっています。
(後編に続く)