国体山岳縦走で鏑木毅選手と競り合いゴールも――〝マウンテンプレイヤー〟眞舩孝道さんインタビュー・中編
Mar 29, 2018 / MOTIVATION
Apr 26, 2019 Updated
サロモン・スントを始めとして、多くの企業にスポンサードされながら、福島県を中心に活動する〝マウンテンプレイヤー〟眞舩孝道さん。前・中・後編で描く眞舩さんの半生記。中編では、フルマラソンを経て、山岳競技に目覚めるきっかけとなった出会いと葛藤について伺いました。
職場への1本の電話に「ときめいた」
福島県の私立高校に就職した眞舩さんは、勤務の傍ら、再起を狙って走り始めます。目標としたのは『東日本縦断駅伝』への出走でした。青森県庁から、東京・読売新聞本社を結ぶ55区間の都道府県対抗レースは、発着点の頭文字を取って『青東駅伝』と言われていました。学生ランナーも腕試しで出場していたこの駅伝に出走することで、眞舩さんは自らの実績にしようと考えたのです。しかし、現実は甘くありませんでした。
「社会人1年目は予選落ち。2年目こそはと、春先から地元のロードレースに毎週の様に出場していたんです。そうしたら、夏に1本の電話がかかってきました」
電話の相手は福島県山岳連盟のスタッフ。開口一番出てきたのは「山岳競技という種目が国体(国民体育大会)にあるんですが」という言葉でした。
「ひとことで言うと『キミ、(山岳競技に)向いてるよ』と。存在は知っていました。国体の山岳競技に『縦走』という種目があったんですが、福島県にとってお家芸の様な競技。電話が来た時は、私が?という感じでしたが、『しっかりした身体つきで、毎週の様に安定して走っている人は他にいない』と言われて」
出場を狙っていた青東駅伝は、奇しくもこの年(2002年)を最後に閉幕しています。思わぬ形で現れた分岐路でした。
箱根駅伝への夢をも上回る「最上の喜び」
山岳競技へ取り組み始めた眞舩さんは、早速ザックに20kg程の重りを詰めて走り始めます。周囲から「急にどうしたんだ」と言われながらトレーニングを続け、福島県の総合体育大会で優勝し、東北大会も制してしまいます。
当時の国体山岳競技は『縦走』と『クライミング』で競われていました。3人1組で、1人が縦走、もう1人がクライミング、そしてもう1人が両種目をこなします。2002年の高知国体に出場した眞舩さんは縦走で2位。3位は、現在UTMF(ウルトラトレイル・マウントフジ)のプロデュースなどで知られる鏑木毅さん(群馬代表)でした。結果は、初出場ながら山岳競技の総合優勝を経験することになります。
「この上ないものを見た気分で、箱根も頭から消えました。逆に、『次の年も(山岳競技を)頼むね』と言われて。青東駅伝の代表にはなれなかったけど、山岳競技で福島の代表になったことでモチベーションがわいてきたんです」
眞舩さんは2002年から2007年まで福島県代表の縦走選手として走り続けました。
縦走の廃止で抜け殻に
この時も指針を示してくれた人との出会いがありました。それは最初に電話で勧誘をしてきた人でもあります。
「菅野富寿さんという方です。現在は福島の郡山でクライミングジムのオーナーをされています。東北大会で勝って国体への初出場を決めた時、菅野さんから『福島を代表することの誇りを持て』と諭されて。周囲を見渡し、自分を客観視することを学びました。あとは〝山の怖さ〟を教えてくれたのも菅野さんです」
「山岳競技では仲間に恵まれて、福島県としても実績を残せた。最高のステージだと思いました。ただ『さらに高い所を求めるようになるよ』と周りから言われた時に、怖さもありました。実は、山から1度離れようと思った時期が、国体で縦走が廃止になった時なんです」
国体の山岳競技における縦走は、諸事情により、2007年の秋田国体を最後に廃止されています。
「2007年は有終の美を飾りたいと思っていましたが、10位でした。周囲のプレッシャーが強くて、毎日国体のことが頭から離れない。最後は山を走りたくないというか、負けてホッとしたのが正直なところでした」
肌身で感じた〝トレランブーム〟の夜明け。そして3.11
国体の縦走が2007年に終了してから約1年間は、「ほぼ山に行っていなかった」という眞舩さん。しかし彼の耳目には、各方面から『トレイルランニング』という言葉が入ってきてはいました。
「山に行かなくなってからは、フルマラソンへの意欲が再燃していました。一方で、その頃から雑誌で『トレイルランニング』という言葉が目に付くようになりました。鏑木さんを始め国体で競った人たちが出ていて、今も山を走っているんだ、と」
当時(2008年〜2009年)は、日本のトレイルランニングブーム黎明期。国体の縦走が廃止になり、全国の縦走者が思い思いに山々を走り始めた時期でもあったのです。
「当時、私は福島県内の大学職員として、多忙な日が続いていました。その時に、身体が自然を求めたんですよね。身近な里山に足を運んだら、気持ちがリセットできるというか。トレイルレースに出てみたらそれなりに結果も出て、初めてスポンサーが付いたりもして。少しずつトレイルランニングが面白くなってきた時、震災が起きたんです」
2011年3月11日の東日本大震災発生時、眞舩さんは勤務先である福島市の大学構内にいました。
「大学が春休みだったので、帰省中に亡くなった学生、家族を亡くした学生や同僚もいました。自分が住んでいる家も傾きました。家族には実家に避難して貰って、自分は仕事の為、一人福島市に残りました。そこで自分の人生を振り返った時に、福島に気持ちが向いたんです。国体の時に県を挙げてサポートして貰ったけど、プレッシャーに負けて、県の代表はもう嫌だと思っていた。でも福島がそんな状況の時に、福島県にはこんな人がいる、と発信できたら、福島が少しでも元気になるんじゃないかと」
眞舩さんのランニング人生は、震災を機に、3回目の大きな転換を迎えます。後編では、福島県にトレイルランニングカルチャーを根付かせる土台にもなった活動について尋ねます。
(後編に続く)