ネパールの聖域を駆けた唯一の日本人に。 医師も〝根負け〟したスパルタからラダックに至る意志

スパルタスロン。

毎年、ギリシャで開催されている約246kmの超長距離レースです。

制限時間は36時間。標高は海抜0mから1,200mまで。サーフェスはアスファルトからトレイルまで。75ポイントある関門それぞれに制限時間が設けられ、医療スタッフが常時待機しています。

このレースの発祥は歴史に紐付いています。

<紀元前490年のマラトンの戦いにおいて、アテネ軍の兵士がスパルタ軍に援護を要請する為に、アテネを出発した翌日にスパルタまで到達した。その言い伝えを再現するべく、1982年に英国空軍の中佐が同じコースを自らの脚で辿り、この挑戦が、アテネ、スパルタ間を結ぶウルトラレース開催の火付け役となった――>

ウルトラマラソンの魅力を知った佐藤良一さんの人生記。中編ではスパルタスロン、そして100kmと並んでナショナルチームも存在する24時間走参戦。そして海外山岳レースについて伺いました。

「生きている人間のデータではないですよ」

—『萩往還マラニック』を完踏して、すぐに海外のレースに目が向いたのでしょうか。

萩往還の前日にあったセミナーで講師の2人がスパルタスロンを完走していたんです。で、「萩を完踏すれば出場権が貰えるよ」と。スパルタスロン自体は、間寛平が出場していたので知っていましたが、自分には関係ないと思っていました。でも(萩往還を)完踏した半年後にスパルタのスタートラインに立っていた。内心ビビっている。萩では45時間で250kmを踏破していますが、スパルタは制限時間が36時間だから、その時点で無謀です。それでも完走するつもりでいる。100kmは超えて、117kmも超えました。その時、近くで走っていた大阪の男性がいて、彼がコースをロストしてしまったんです。慌ててリカバリーを図ったんですが、結局関門に引っかかってしまいました。とはいえ、出場権利は翌年も持っていたので、「次のスパルタは脚がもげても完走する」と周囲に言い続けて自分を追い込んでましたね。

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Photo by Naoto Yoshida

—その時のレースはどうでしたか?

完走はできましたが、実力ではないと思っています。レース中は、「脚がもげても走る」という決意を最後まで貫いて、それこそ死ぬ気で走っていて。走る力は残っていないんだけど、「もう半歩動かせる」と無理矢理腕を振って脚を動かして。走行前後に採血をしたのですが、後で自分の採血データを日本の医師に見せたら、「生きている人間のデータではないですよ」と言われて、自分でも驚きましたね(笑)。

—普通、そこまで追い込んでいたら、身体の反応に気づいて止まると思うんです。レースに没入して、いわゆる〝ランナーズハイ〟の様な状態だったのでしょうか。

動かない身体を無理矢理動かして進んでいた、それだけです。過去と未来、どれをとってもここまで追い込むことはないから、それを今やっているんだ、みたいな意識でしたね。

スパルタの練習で始めた24時間走

—そこからまた継続してスパルタスロンに出場していた。

最高位は10位(2007年/29時間25分)まで行きました。並行して、スパルタの練習に良いと思って、24時間走にも出る様になりました。その頃、日本で初めての24時間走がお台場であって、丁度良いと。その時に、スパルタで上位に入っていた日本人選手の一人が、24時間走の日本代表になったという話を聞いたんです。「215kmを超えれば代表になれるよ」と言われて、「いけるな」と思って。お台場の大会で走破したのは225km。結果的に台湾のアジア大会、オーストリアの世界選手権にも出場できることになりました。日の丸の姿を見せたくて、親も呼びましたよ。アジア大会は、400mトラックをひたすら周回する恐ろしいレースでしたが、7位(222.667km/556周)に入ることができました。日本代表になれたことで自信がつき、スパルタで10位になったという順番ですね。

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Photo by Naoto Yoshida

—日本代表の時はどういったモチベーションで走っていたのでしょうか?

期待されてる選手では無かったので、気楽でしたね。実力のあるランナーは他にいたし、当時、個人、団体ともに金メダルは日本でしたから。スタッフも上位3名を精力的にサポートして、自分に対しては「あ、走ってたんだ」みたいな感じで(笑)。代表は計6名で、離脱した選手の為の補欠が3名。僕は補欠だったんです。日本チームが危うくなってからは僕も応援して貰って、世界選手権では19位でした。正式な代表になれたのはその年(2005年)だけで、以降2年はオープンカテゴリで出場しましたが、ダントツ優勝の、トータル15位相当で走ってましたね。

命を大切にすること=走ること

スパルタスロン、24時間走と200kmを大きく超える競技への出場を繰り返し、自身のランニングキャリアを成熟させながらも、シビアな競技ゆえ、成績を維持するのは容易ではありませんでした。両レースから少し距離を置こうとしていた折に、趣味の登山と、自らが「第2の故郷」と呼ぶネパール、インド地域への憧憬が邂逅します。途中、心疾患の症状が本格化。体内に機器を埋め込んでもなお、佐藤さんは機会に招かれるままに、ランニング未開の地へと踏み出していくことになります。

—海外の山岳レース出場のきっかけについて伺えますか?

スパルタも24時間走も成績が下降気味でもう縁がないと思って(スパルタスロンは2009年を最後に以降4大会は途中棄権)。幼い頃、親によく山へ連れていかれた影響で、高校時代から登山もやっていて、ネパールにも何度か行っていたんです。アンナプルナ(標高8,091m)とか、ヒマラヤ地域に入域したこともありました。ある時、『ランナーズ』で同山域のトレイルレースを見つけて、「あんなところでレースがあるのか」と。ネパール在住のウプレティ美樹さんという女性が完走記を寄稿していたんです。彼女に連絡したら「是非来てください」と。そうしたら、日本人がもう一人出ていて、石川弘樹さん(プロトレイルランナー)でした。レース自体は現地の選手が石川さんに勝とうと、コースをミスリードしたり、ショートカットしたり(笑)。結構ショッキングなことも多かったですね……。

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写真提供・佐藤良一

—そこから、インド、ネパールの他地域のレースにも出場していくと。

ネパールに『ムスタン』というエリアがあって、部外者は年間400人までしか入れない。昔から憧れの地でもありました。すると、アンナプルナのレース主催者がムスタンで280kmのレースを開催すると。そこで「リョウイチはいつの開催なら参加できる?」と聞かれたんです。「ゴールデンウィークの前後かな」と返答したら本当にその時期に開催になって、「なら行かなきゃ」と。けれど、そのタイミングで大きな発作に見舞われて、機器(ICD)を移植せざるを得ない事態になりました。手術後は、定着まで2ヶ月かかるから絶対安静。この状態では走るどころか歩くことも考えられない。既に航空券も取っていたのですが、やむを得ないかな、と。そうしたら妻が「行っていいよ。軽く散歩してきたら」と言ってね。大きなザックは背負えないから、キャリーに縛り付けて引いていく。レース中に背負うものも心臓部にハーネスが当たらないようにスポンジを装着したり。それをする時点でもうやる気になっている(笑)。もはや散歩じゃないですね。結果的には、手術の抜糸が残っている状態で完走してしまいました。

それから1ヶ月後、今度はインドのラダックというエリアのレース(222km)に出場して、完走。当時、NHKの特派員がこのレースに出場する日本人を待っていて、僕が申し込んだらすぐに電話がかかってきて、レース当日に取材も受けましたよ。

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写真提供・佐藤良一

—その両大会とも、他に日本人はいたのですか?

今に至るまで自分だけです。当時は引っ張られるように色々なことが起きました。「やめる」と言えばそこで終わりなんですけど、呼ばれるままに行動していましたね。

尋常ならざるバイタリティ。医師から見れば、決して認められる行為ではないことは明らかです。しかし、そこに当人の〝諦め〟はあらず。あるのは〝動機〟と、それを裏付ける〝好奇心〟です。

「最初は病院の先生から『もっと命を大切にしなさい』と言われ続けていました。ICDから送信される身体データで僕の活動は把握されているので、練習で皇居を走れば叱られる。でも、『命を大切にしなさい』と相変わらず言われ続けて、ある時『だから僕は走るんですよ』と言い返したら、『それもアリかな……』と。僕が逆に先生を教育しちゃった(笑)。そういう生き方もあるんです」

後編では、佐藤さんの生き方と、夢について伺います。

(後編に続く)

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