「治郎丸が泣いている……」、箱根駅伝アンカーがレース中の真相を語る
Oct 29, 2017 / MOTIVATION
Apr 26, 2019 Updated
「今日は1.16キロを3分9秒で4本。1キロあたり2分48秒〜50秒。休憩を長く取らず、コンパクトにこなします」
同僚と汗を流した大柄な男性は、呼吸を整えながら話してくれました。
10月上旬の代々木公園。この日は来園者の少ない時間帯を使って、園内の周回コースでポイント練習です。
治郎丸健一さん(33歳)。現在はボディケアサービスを提供する『ラフィネ』の陸上部に所属し、プレイングコーチとして活躍しています。同時に今年3月に設立された『一般社団法人 国際スポーツライフタイム協会』の代表理事も務めます。2007年、第83回箱根駅伝において、駒澤大学のアンカーを任された選手と言うと、駅伝ファンの方はピンとくるかもしれません。
〝現在は〟という表現通り、治郎丸さんの人生はまさにRuntrip。〝走る〟ことを軸に様々な経歴を重ねてきました。
中学時代にサッカーから陸上競技へ転身し、由良育英高校(現・鳥取中央育英高校)で都大路に2年連続で出走。駒澤大学時代、故障に悩まされた末に出場した最初で最後の箱根駅伝で区間5位。シード権争いに巻き込まれかけた母校を総合7位に食い止める立役者に。2007年に卒業後は一度競技から引退するも、約1年のブランクを経て市民ランナーとして復帰し、再び競技意欲が再燃。駒大・大八木監督のはからいで大分東明高校陸上競技部にプレイングコーチ兼寮監として赴任。高校生と同じトレーニングをこなしながらレースに出場し、九州一周駅伝で4度の区間賞を獲得するなど活躍。その過程で日清食品グループから声が掛かり2010年から実業団ランナーへ。ニューイヤー駅伝出場、チームキャプテンを経験したのち、2014年から桜美林大学陸上競技部の長距離プレイングコーチに就任。今年度からラフィネ陸上部へジョインし、夏の北海道マラソンに出走。2020年東京五輪マラソン代表選考会『グランドチャンピオンシップ』の指定大会となった同レースで、一時先頭に立つ見せ場をつくり、2時間18分11秒で11位。
息もつかせぬ経歴。これに上述の〝代表理事〟が加わります。
大学時代の同僚である、ものまねアスリート芸人のM高史氏(川内優輝のものまねで著名)は治郎丸さんを「マラソンランナー、ランニングコーチ、代表理事の3足のわらじ」と表現します。
なぜこのような経歴を歩んできたのか。前編では、ランナーとして開花し駒大時代の回想を経て、日清食品グループ入社に至るまでを聞きました。
都大路2回出走。「逆指名」で駒大へ
——陸上を始めたきっかけは?
小学校時代にやっていたサッカーを継続するつもりでいたのですが、いざ中学校でサッカー部に入ると1年生は特定の期間までボールを蹴ることができないというしがらみがあり「全然面白くなかった」。そんな時に地域の駅伝に参加する機会があったんです。そこでは速ければ試合に出場できた。サッカーは団体種目ですから11人の中で様々な事情があるけれど、陸上は個人だから頑張ればそれなりの結果がついてくる。その純粋さに惹かれました。
――そのまま高校も推薦で入学。高校陸上を振り返ってみて如何ですか?
結構自由なチームでした。坊主にしなくても良かったし(笑)。週に3回のポイント練習と朝の集団走以外は各自練習。監督からの指示も少なくて、考えてやることを覚えた3年間でしたね。伝統みたいな感じで、1年生は最初、何をすればいいかわからない。ときに先輩を見て学び基礎を作って、2・3年次は何をすれば強くなるかを考えていきました。
――高校駅伝の思い出は?
2年次は都大路初出場を狙っていたのでがむしゃらでしたけど、3年次は2度目ということでいかに前年を超えるかにフォーカスしました。けれど両方とも全国14位で、正直もう少し行けたかなとは思うんですけど……。3年次はキャプテンでしたが、目指すチームのビジョンを示しながら、言葉と結果で引っ張っていましたね。
――高校陸上を終えて、進学する大学はいくつか候補があったのでしょうか?
立命館、國學院、あとは山梨学院とか。でも、駒大は逆指名でした。それまで箱根駅伝を連覇していたから憧れも強くて、私の方から行きたい!と。既に枠が埋まっていたのですが、途中で欠員が出て、推薦枠で入部できることになりました。
――駒大に入って1年目、ギャップはありましたか?
ありました。心理的なギャップですね。高校が自由過ぎたので、厳しく指導されたい思いで行ったんですが、私自身が〝お客様気分〟というか。大八木さんの指導を受けたいという憧れが強くて、その環境下で先輩と戦うんだという意志が足りなかった。「このままじゃまずい」という気持ちを作るまでに約1年かかりましたね。
――駅伝シーズンもそれを引きずっていたと。
やはり夏合宿をこなせないと秋の飛躍は難しいですよ。大学駅伝では特に。大八木さんは選手の評価がとてもシビアなので、どこかでターニングポイントを作らなくちゃいけない。大八木さんに与えられたチャンスを生かすというか。それもタイムじゃなくて勝ち切る、合宿明けの疲労感の中、ハーフマラソンで結果を出す、とか。要所で力を発揮できれば、大八木さんの印象も変わって、人生も変わってくるんです。どうすれば認めてもらえるか、大八木さんの性格を見越して常に考えてましたね。それでもチャンスを1年生から3年生まではモノにできなくて。4年生の夏合宿明けに一関国際ハーフマラソンで優勝したことが転機でした。それが結果的に箱根のアンカー起用に繋がったんです。
――箱根駅伝出走までのエピソードをもう少し詳しく伺えますか?
一関ハーフが決め手になって、11月の全日本大学駅伝には出場する予定になっていた。練習もそれまで想像もできない程こなせて「これは行ける」と。でもそこに落とし穴があった。それほど走れたのが初めての経験だったから、疲労の蓄積に気付かなかったんですね。全日本の調整練習で大八木さんに調子を訊かれて「ちょっとキツかったです」と言ったらメンバー漏れ。チームは優勝しましたが、全く嬉しくなかった。その直後の合宿で故障してしまって、11月中一歩も走れなかった。12月に入って「いよいよ間に合わない」と無理やり動き始めて、何とか練習もこなしたんです。大八木さんからも「大丈夫か?」と訊かれながら、絶対弱音を言わないと思って「イケます」と言いきっていました(笑)。それでようやくスタートラインに立つ資格をもらえました。
――レース中の記憶は?
結構残ってるんです。前半抑えていたら後続に追いつかれて四つ巴(よつどもえ)になってしまい、そこからはいかに抜け出すかを考えてました。
――テレビ中継でアナウンサーから「治郎丸が泣いている」と言われていましたが(笑)
今だから言えますけど、実際は泣いていないです。汗が目にしみて痛くて拭いてました(笑)。それよりも逃げることに必死でしたね。レース後には監督から「助けられた」と言ってもらったことが一番の労いです。大学4年間の内、3年半は苦しかった。箱根を終えて「ようやく終わる」と思いましたから。
市民ランナーとして再スタート
駒大での厳しい体験を終えて「走る気も起きなかった」という治郎丸さんですが、約1年後、大学の先輩から駅伝に誘われ『AC.NANKUL』というチームで市民ランナーとして復帰。同チームのメンバーとして活動した1年間、3回程駅伝に出走しました。その間、トラックレースの記録会にも出場し、5千メートルで14分台をマークする等、次第にレース感覚を取り戻していきます。
「まだやれんな!」
再燃したランニングへの温度感は高まり、恩師である駒大・大八木監督の紹介で大分東明高校で陸上競技部プレイングコーチの職を得ます。同校は大分県内にとどまらず、全国でも名を馳せる長距離の強豪校。治郎丸さんが在籍した2009年の全国高校駅伝は12位でフィニッシュしています。「コーチと言っても一緒に走って励ます程度でした」とは言うものの、部員たちと寮で寝食を共にしながら、早朝5時過ぎに開始する朝練習、普段のトレーニングから合宿に至るまで、全て同じメニューをこなしたといいます。
前述のM高史氏は回想します。
「当時は週3回くらい(治郎丸と)電話してました。しんどい、辞めたいと(笑)。それでも夏ぐらいからは、走れてきているなという感じはしましたね」
再起3年目、実業団最強集団からのオファー
それまで1年スパンで転換を迎えていた治郎丸さんの人生に再び転機が訪れたのは2009年の12月頃。九州一周駅伝や多くのエリートランナーが出場する熊本甲佐10マイルレースでも実績を残し、日清食品グループ陸上競技部の白水監督から声が掛かります。
「レース終わってクールダウンしていたら突然、『おぅ、ウチに来んか?』と。ただそれだけでした(笑)」
佐藤悠基選手(日本陸上競技選手権1万メートル4連覇、ロンドン五輪代表)らを擁し、直後のニューイヤー駅伝(全日本実業団駅伝)でも優勝を果たしたスター揃いのチームに所属することになった治郎丸さん。その後、2011年の同大会では5区に出走し区間2位。チームは連覇成らず3位でしたが、競技を一度引退してから約4年、〝エスカレーター式〟のステップアップとは言えないランナーの躍進でした。その後は2012年にチームキャプテンも経験し、2014年までの約4年間、籍を置きます。
――日清食品グループに入って、また改めて競争の世界に入ったわけですよね?そこでまたギャップは感じましたか?
特にはなかったです。もう覚悟を決めていたので。怪我もありましたけど、やはり楽しかったですね。とにかく自由なチームなんですよ。結果を出してくれればそれで良いという感じ。個々人のプロ意識に任されていたので、管理もほとんどされなかった。駒大には「厳しく指導されたい」と思って入りましたが、今度はその反動で「管理されたくない」と思うようになりました(笑)。自分で考えてやりたいという方針で日清に入った面もありますね。
――自由な高校時代と厳しい駒大時代。そこで改めて自由な環境を選んだのは競技力のステップアップも影響しているんでしょうか?
それもあります。裁量のあるチームでやりたいという思いもあって。自分で考えられない選手ではなかったし、「むしろ追い込まなきゃ」くらいの気持ちでいましたから。駒大は、抜くことを知っている人の方が成長できるチームです。プラスアルファを出そうとすると逆に疲労が蓄積して動かなくなっちゃう。私の場合、高校時代と駒大時代の両方を知っているから、ある意味ハイブリッドというか。入るべくして(日清に)入ったんだろうなと思いながら過ごしていましたね。
――中間を知っているからこその選択だったと。
そうですね。あとは、どうせなら崖の上に立ってやる環境の方が私には向いていると思っていました。将来が安定しているチームでやるより、結果が出せなければクビという方が良いのかなと思って。
――最後はどういった形で区切りを?
まぁ、マラソンを走って形式上は区切りを付けました。指導者とかコーチになるという時、タイミングってあるんです。私自身、2013年、2014年は結果も出ていなくて、白水監督から見ても「将来を見据えるタイミングがいいんじゃないのか」ということで、(桜美林大学の)コーチの話を頂きました。プレイングコーチで採用してくれるということで、一度大分東明での経験もあるので、やれないことはない、と思って引き受けました。
完成された高校駅伝の名門で「励ますだけだった」というプレイングコーチ業は、強豪実業団チームでの経験を経て、今度は本格的なチーム構築のポジションへと昇華。後編では、桜美林大学陸上競技部プレイングコーチ以降の足跡と、治郎丸さんの〝生き方〟について伺います。