「治郎丸が泣いている……」、箱根駅伝アンカーがレース中の真相を語る

「今日は1.16キロを3分9秒で4本。1キロあたり2分48秒〜50秒。休憩を長く取らず、コンパクトにこなします」

同僚と汗を流した大柄な男性は、呼吸を整えながら話してくれました。

10月上旬の代々木公園。この日は来園者の少ない時間帯を使って、園内の周回コースでポイント練習です。

治郎丸健一さん(33歳)。現在はボディケアサービスを提供する『ラフィネ』の陸上部に所属し、プレイングコーチとして活躍しています。同時に今年3月に設立された『一般社団法人 国際スポーツライフタイム協会』の代表理事も務めます。2007年、第83回箱根駅伝において、駒澤大学のアンカーを任された選手と言うと、駅伝ファンの方はピンとくるかもしれません。

〝現在は〟という表現通り、治郎丸さんの人生はまさにRuntrip。〝走る〟ことを軸に様々な経歴を重ねてきました。

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Photo by Naoto Yoshida

中学時代にサッカーから陸上競技へ転身し、由良育英高校(現・鳥取中央育英高校)で都大路に2年連続で出走。駒澤大学時代、故障に悩まされた末に出場した最初で最後の箱根駅伝で区間5位。シード権争いに巻き込まれかけた母校を総合7位に食い止める立役者に。2007年に卒業後は一度競技から引退するも、約1年のブランクを経て市民ランナーとして復帰し、再び競技意欲が再燃。駒大・大八木監督のはからいで大分東明高校陸上競技部にプレイングコーチ兼寮監として赴任。高校生と同じトレーニングをこなしながらレースに出場し、九州一周駅伝で4度の区間賞を獲得するなど活躍。その過程で日清食品グループから声が掛かり2010年から実業団ランナーへ。ニューイヤー駅伝出場、チームキャプテンを経験したのち、2014年から桜美林大学陸上競技部の長距離プレイングコーチに就任。今年度からラフィネ陸上部へジョインし、夏の北海道マラソンに出走。2020年東京五輪マラソン代表選考会『グランドチャンピオンシップ』の指定大会となった同レースで、一時先頭に立つ見せ場をつくり、2時間18分11秒で11位。

息もつかせぬ経歴。これに上述の〝代表理事〟が加わります。

大学時代の同僚である、ものまねアスリート芸人のM高史氏(川内優輝のものまねで著名)は治郎丸さんを「マラソンランナー、ランニングコーチ、代表理事の3足のわらじ」と表現します。

なぜこのような経歴を歩んできたのか。前編では、ランナーとして開花し駒大時代の回想を経て、日清食品グループ入社に至るまでを聞きました。

都大路2回出走。「逆指名」で駒大へ

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Photo by Naoto Yoshida

——陸上を始めたきっかけは?

小学校時代にやっていたサッカーを継続するつもりでいたのですが、いざ中学校でサッカー部に入ると1年生は特定の期間までボールを蹴ることができないというしがらみがあり「全然面白くなかった」。そんな時に地域の駅伝に参加する機会があったんです。そこでは速ければ試合に出場できた。サッカーは団体種目ですから11人の中で様々な事情があるけれど、陸上は個人だから頑張ればそれなりの結果がついてくる。その純粋さに惹かれました。

――そのまま高校も推薦で入学。高校陸上を振り返ってみて如何ですか?

結構自由なチームでした。坊主にしなくても良かったし(笑)。週に3回のポイント練習と朝の集団走以外は各自練習。監督からの指示も少なくて、考えてやることを覚えた3年間でしたね。伝統みたいな感じで、1年生は最初、何をすればいいかわからない。ときに先輩を見て学び基礎を作って、2・3年次は何をすれば強くなるかを考えていきました。

――高校駅伝の思い出は?

2年次は都大路初出場を狙っていたのでがむしゃらでしたけど、3年次は2度目ということでいかに前年を超えるかにフォーカスしました。けれど両方とも全国14位で、正直もう少し行けたかなとは思うんですけど……。3年次はキャプテンでしたが、目指すチームのビジョンを示しながら、言葉と結果で引っ張っていましたね。

――高校陸上を終えて、進学する大学はいくつか候補があったのでしょうか?

立命館、國學院、あとは山梨学院とか。でも、駒大は逆指名でした。それまで箱根駅伝を連覇していたから憧れも強くて、私の方から行きたい!と。既に枠が埋まっていたのですが、途中で欠員が出て、推薦枠で入部できることになりました。

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Photo by Naoto Yoshida

――駒大に入って1年目、ギャップはありましたか?

ありました。心理的なギャップですね。高校が自由過ぎたので、厳しく指導されたい思いで行ったんですが、私自身が〝お客様気分〟というか。大八木さんの指導を受けたいという憧れが強くて、その環境下で先輩と戦うんだという意志が足りなかった。「このままじゃまずい」という気持ちを作るまでに約1年かかりましたね。

――駅伝シーズンもそれを引きずっていたと。

やはり夏合宿をこなせないと秋の飛躍は難しいですよ。大学駅伝では特に。大八木さんは選手の評価がとてもシビアなので、どこかでターニングポイントを作らなくちゃいけない。大八木さんに与えられたチャンスを生かすというか。それもタイムじゃなくて勝ち切る、合宿明けの疲労感の中、ハーフマラソンで結果を出す、とか。要所で力を発揮できれば、大八木さんの印象も変わって、人生も変わってくるんです。どうすれば認めてもらえるか、大八木さんの性格を見越して常に考えてましたね。それでもチャンスを1年生から3年生まではモノにできなくて。4年生の夏合宿明けに一関国際ハーフマラソンで優勝したことが転機でした。それが結果的に箱根のアンカー起用に繋がったんです。

――箱根駅伝出走までのエピソードをもう少し詳しく伺えますか?

一関ハーフが決め手になって、11月の全日本大学駅伝には出場する予定になっていた。練習もそれまで想像もできない程こなせて「これは行ける」と。でもそこに落とし穴があった。それほど走れたのが初めての経験だったから、疲労の蓄積に気付かなかったんですね。全日本の調整練習で大八木さんに調子を訊かれて「ちょっとキツかったです」と言ったらメンバー漏れ。チームは優勝しましたが、全く嬉しくなかった。その直後の合宿で故障してしまって、11月中一歩も走れなかった。12月に入って「いよいよ間に合わない」と無理やり動き始めて、何とか練習もこなしたんです。大八木さんからも「大丈夫か?」と訊かれながら、絶対弱音を言わないと思って「イケます」と言いきっていました(笑)。それでようやくスタートラインに立つ資格をもらえました。

――レース中の記憶は?

結構残ってるんです。前半抑えていたら後続に追いつかれて四つ巴(よつどもえ)になってしまい、そこからはいかに抜け出すかを考えてました。

――テレビ中継でアナウンサーから「治郎丸が泣いている」と言われていましたが(笑)

今だから言えますけど、実際は泣いていないです。汗が目にしみて痛くて拭いてました(笑)。それよりも逃げることに必死でしたね。レース後には監督から「助けられた」と言ってもらったことが一番の労いです。大学4年間の内、3年半は苦しかった。箱根を終えて「ようやく終わる」と思いましたから。

市民ランナーとして再スタート

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