キプチョゲ『1時間59分40秒』を可能にしたX字型フォーメーション
Oct 13, 2019 / COLUMN
Feb 08, 2020 Updated
ウィーンで行われた『イネオス1:59チャレンジ』で男子マラソン世界記録保持者のエリウド・キプチョゲ(ケニア)が42.195kmを1時間59分40秒で走破した。このレースはペーサーが入れ替わるなど国際陸上競技連盟(IAAF)の規則に適していないため非公認記録となるが、人類で初めて “マラソンのサブ2” が達成された。
HISTORY! pic.twitter.com/qjLfofhL5s
— Eliud Kipchoge – EGH🇰🇪 (@EliudKipchoge) October 12, 2019
歴史的なフィニッシュラインを越えた人類初のサブ2達成者のキプチョゲは、まず最初に妻と抱き合い、彼の3人の子供、コーチのパトリック・サング、ペーサーたちと喜びを分け合った。キプチョゲ一家は、この瞬間のためにケニアからウィーンまでやってきたが、妻子ともに彼のレースを生で見るのは初めてだったという。
レースハイライト
キプチョゲとペーサーはウォーミングアップを終えて、スタート地点であるウィーンのライヒス橋から午前8時15分に一斉に走り出した。
この日の午前5時前に朝食を摂ったキプチョゲは、それからスタートまでの3時間を「私の人生の中で最も難しい時間だった」と話した。とはいえ、不屈のメンタルを持つ彼はマラソン競技において、公式戦10連勝、リオ五輪チャンピオン、そして現世界記録保持者である。その動きは序盤から落ち着いているようにみえた。
※レース動画(解説のシャレーン・フラナガンは「リラックスしている」と話した)
ペーサーの前方には1km2分50秒ペースで進む自動運転車が先導。実質的なペースは車が作り、その背面に1kmごとのラップなどを表示する電光掲示板を装備し、レーザーで先頭のペーサーの走行位置を示し続けた。ペーサーは第1〜第9グループまで準備され、日本の村山紘太(旭化成)は13kmからの第4グループでキプチョゲを5kmほど先導した。
集団は最初の5kmを14分10秒、10kmを28分20秒(1時間59分33秒ペース)で入った。その後は5km14分12秒〜14秒の安定したラップでレースは進み、30kmを1時間25分11秒(1時間59分48秒ペース)で通過。一般的にマラソンは30km以降に“壁”があるとされるが、キプチョゲが越えようとしているのは『マラソンサブ2の壁』だった。
観客の声援が増し、ペーサーの表情が一段と引き締まる。その一方で、キプチョゲは苦しそうな表情を見せず、偉業に向けて集中していた。そして、それまでの41.6kmを先導していたペーサーが残り500m地点でフォーメーションを解き、キプチョゲに先頭を譲った。
そこからキプチョゲはペースを上げ、フィニッシュラインに向かいながら左右の観客に手をあげてアピールし、最後は両手を広げながら1時間59分40秒でマラソンサブ2を達成。それは、マラソンの歴史に新たな1ページが刻まれた瞬間だった。
【イネオス1:59チャレンジ】ウィーン(オーストリア)
午前8時15分スタート・気温9℃・風速0.5〜1.5メートル(微風)
※ラップ(正式記録)
距離 | 通過タイム | ラップタイム |
5km | 14:10 | |
10km | 28:20 | (14:10) |
15km | 42:34 | (14:14) |
20km | 56:47 | (14:13) |
25km | 1:10:59 | (14:12) |
30km | 1:25:11 | (14:12) |
35km | 1:39:23 | (14:12) |
40km | 1:53:36 | (14:13) |
42.195km | 1:59:40.2 | (6:04) |
(前半59:53 – 後半59:47)平均 2:50:1/km |
ペースは概ね2:50/kmで推移。2:48〜2:52/kmの範囲にまとめられた。
【キプチョゲのレース直後のインタビュー要約】
「フィニッシュのシーンは私の人生で “最高の瞬間” だった。ロジャー・バニスターの1マイル走サブ4達成から65年後に、マラソンで2時間を切って、人間に限界は無いことを証明できた。ペーサーがこのような仕事を引き受けてくれて彼らにとても感謝している。母国のケニアにとって、良いことであるし、自分の家族もここで見てくれて本当に良かった」
Situation on the ground in Eldoret Uasin Gishu county as @EliudKipchoge approached the finish line🎉🎉💪💪 #Eliud159 #NoHumanIsLimited @MichKatami @iaaforg @INEOS159 @humphkj pic.twitter.com/ac2NbCACzy
— National Olympic Committee of Kenya (@OlympicsKe) October 12, 2019
ゴール後のケニアの都市・エルドレットの街の様子 ©︎2019 Kibet Tirop
イネオス1:59チャレンジのYouTubeのライブ配信では、フィニッシュシーンを約76万人が視聴。また世界各国の放送局がレースの模様を生放送した。これだけ多くの人が視聴したという事実は、このレース(マラソンサブ2)が多くの人々から注目され、非公認レースとはいえ “エンターテインメント” として世界中に認められた証だろう。
前回(Breaking2)から何が変わったか?
今回のサブ2達成の要因としては、以下が考えられる。
① 気象条件
② シンプルなフラットコース
③ 多くの声援
④ ナイキのプロトタイプのシューズ(α-FLY)
⑤ ペーサーのフォーメーション計画
⑥ キプチョゲの調子・メンタルが安定していた
①と②はこのレースを行うにあたっての最低条件。①は理想の条件となるように予備日を設けた(実際には従来の予定日に開催された)。②は選定のために世界各地をリストアップし、①を満たし、かつケニアと時差が1時間しかないウィーンが開催地に選ばれた。③と④と⑤は前回からの大きな改善点である。また、①〜⑤が揃ったことで、⑥のメンタルの安定に繋がった。
① 気象条件
気温9℃、風速0.5〜1.5メートルの微風と理想の条件に近かった。レースの中盤からは少し雨がちらついたが、大きな影響はなかった。前回のBreaking2では気温11℃で、レース後半に湿度が上昇し、それが失速に影響したのではないかと言われている。
② シンプルなフラットコース
スタートこそライヒス橋から始まったものの、レース全体を通して大きな高低差はなく、かつ4kmほどの直線と両端のロータリーを4.4往復するというシンプルなコースで、最短コースは全てマーキングされており、キプチョゲはその上を走った。
③ 多くの声援
前回のBreaking2は大会関係者やメディアのみの非公開イベントであったのに対して、今回は一般の観客を動員。
レース終盤は特に大きな声援がみられた。観客の声援は選手に対して心理的なアドバンテージをもたらしただろう。
④ ナイキのプロトタイプのシューズ(α-FLY)
レースでキプチョゲはナイキの新しいシューズ『ネクスト%』プロトタイプの “α-FLY” を履いた。
Nike has unveiled the super shoes that Eliud Kipchoge will wear in his attempt to break the two hour marathon barrier. pic.twitter.com/mhTlUbKNZT
— Chris Chavez (@ChrisChavez) October 12, 2019
フォア部分にズームエアを4枚内蔵した新しいソールユニットで、カーボンプレートが3枚内蔵されている(詳細)。このシューズによって記録が大幅に伸びた、という見方もある。
⑤ ペーサーのフォーメーション計画
次の項目で詳しく触れるが、前回からペーサーの増員やフォーメーションの改善がサブ2を後押しした。
ペーサーの1人として走ったリオ五輪男子1500m金メダリストのマシュー・セントロウィッツ(アメリカ)はペーサーを終えた直後に、「(この世代に1人いるかいないかぐらいの人物)= “偉大” なキプチョゲの前を走りながら、“なんて光栄なことなんだろう”と考えていた。このレースは私のキャリアの中で最も記憶に残る瞬間の1つとなるだろう」と話した。
⑥ キプチョゲの調子・メンタルが安定していた
レースまでのトレーニングはこれまでと一貫して継続してきたキプチョゲ。公式戦のマラソン10連勝と外さない彼は、いつも通りの調整をケニアで行ってきた。前回のBreaking2時の公式の自己記録は2時間03分05秒だったが、今回の挑戦時の公式の自己記録は2時間01分39秒。メンタルにも余裕があったことは間違いない。
イネオスの叡智と『新フォーメーション』
ペーサーは前回の29名から今回は41名(6名補欠)に増員され、空力を改善する狙いあった。前回のBreaking2のフォーメーションから今回はX字型に変更。この決定には、今回のレースの主催者であるイネオス社が持つ世界最高クラスの自転車チームのコーチが携わっており、自転車ロードレースでのドラフティングのノウハウが活用された。
X字型のフォーメーションになったことでの変更点は、選手(キプチョゲ)の後方にも2人ペーサーが配置されたということ。前方の走者(ペーサー)の背後で空気の渦が発生するのに対して、後ろに走者を配置することで乱流を制御するものだと思われる。
前回のBreaking2ではこのようなフォーメーションが採用されていなかったことを考えると、空力にはまだ改善の余地があったことになる。また、自転車チームを持つイネオス社がこのX字型のフォーメーションの風洞実験が行っていたのではないか、ということも容易に想像できる。
今回のフォーメーションは型だけでなく、交代のタイミングも綿密に計画された。ペーサーが変わる時に前2列の4名だけが交代し、キプチョゲの前を走るキャプテンはその4名の交代後に、次のチームのキャプテンと交代(キプチョゲの前方を空にしない)。そして、キプチョゲの後方の2名は前方のペーサーとは違って、第3グループから第4グループでそのまま継続するといった様子で他のペーサーの2倍の距離を走った。
今回のレースのような特殊な条件でのペーサーは、ペースを作る役割ではなく『エアロ・シールド』という表現が最適ではないだろうか。ペーサーの前方には自動運転車が先導し、実質的なペースはこの車が作り出した。上の写真にもあるようにハウプトアレーの4kmほどの長い直線では、ペースは一定の1km2分50秒でほぼ進んだ。
しかし、折り返し地点である両端のロータリーのカーブでは、レーザーで走行位置の表示ができないなど自動運転車の精度が少しだけ鈍った。カーブではキプチョゲがいかにして決められたコースでの最短距離を走るか、というテクニックが必要とされたが、1kmごとのラップの変化は数秒の差にとどめられた(2分48秒〜2分52秒)。
マラソンとキプチョゲは今後どこに向かうのか?
レース後の記者会見でキプチョゲはこのように話した。
「今回のレースではペーサーの先導に従った。 35〜40kmで走ることにより集中したが、その時 “フィフティ・フィフティ” とは思わなかった(達成できるかどうか、ではなく達成できると確信していた)。私は世界中の人々に、 “人間には限界が無い” という前向きなメッセージを残したいと思って走っていた」
その一方で、キプチョゲはレース前には大きなプレッシャーがあったことを認めた。レース前にケニアの大統領や、多くの知人・友人からの励ましのメッセージを貰っていたという。
また、キプチョゲはかつてのバニスターの1マイル走のように、今回のサブ2達成についても自身の考えを述べた。
「1マイル走がかつてそうであったように、不可能と思われていたサブ2を達成できたことで、自分の後にもサブ2が続いて欲しい」
オリンピック5回出場のベテランで、ペーサーの最終グループのキャプテンを務めたバーナード・ラガト(アメリカ)はレース後にこう話した。
「エリウドは、もしあなたが心に何かを決めれば、不可能なことは無いということを世界に教えてくれた。今日は特別な日。1時間59分40秒という記録を見て感動的だった。エリウドは努力したし、我々をインスパイアしてくれた。これは本当に本当に特別なことだ」
マラソンで五輪金メダル、世界記録、サブ2を達成したキプチョゲは次の目標として、果たしてどこに向かうのだろうか?
Following @EliudKipchoge's amazing run in Vienna and @KenenisaBekele's display in Berlin, hands up if you'd like to see this at an #AbbottWMM event some time soon 🙋♂️😍 pic.twitter.com/W42HxZzzk8
— Abbott WMMajors (@WMMajors) October 12, 2019
真っ先に考えられるのはマラソンでの五輪連覇だろう。次の公式戦でサブ2に近づく記録を出す(世界記録を縮める)とも考えられるが、五輪こそが最高カテゴリーの大会であると考える選手は多い。来年の東京五輪のマラソンで、キプチョゲとケネニサ・ベケレ(2019年ベルリンで2時間01分41秒で優勝)の対決がもしかしたら見られるかもしれない。
マラソンとキプチョゲは今後どこに向かうのか?
その答えは現時点ではわからないが、1つ言えるのは、マラソンという競技もキプチョゲという走者も、進化し続けているということだろう。