元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方

「これは自分が走っている場合じゃないぞ」

桜美林大学陸上競技部にプレイングコーチとして就任後まもなく、治郎丸健一さんはそう感じたと言います。

由良育英高校(現・鳥取中央育英高校)から駒澤大学に進み、最終学年で箱根駅伝にアンカーとして出走。その後、大分東明高校陸上競技部プレイングコーチ、日清食品グループ陸上競技部を経て、真也加ステファン監督率いる桜美林大学陸上競技部の長距離プレイングコーチに就任。駆け出しのチームのベースづくりを担いました。治郎丸さんの人生記、今回は同校コーチや現在所属するラフィネ陸上部の経験、さらに代表理事を務める『一般社団法人 国際スポーツライフタイム協会』設立の背景を交えつつ、治郎丸さんの〝人生観〟について伺っていきます。

コーチとしての葛藤

「元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方」の画像
Photo by Naoto Yoshida

――桜美林大学でのプレイングコーチ業は如何でしたか?

就任してみると、真也加監督(※)の指導方針は、選手に与える裁量が大きいという印象を抱きました。監督自身がかつて自主性の強い選手だったこともあり、逆に言えば、選手を管理するのが苦手な面もあったのかもしれません。

※真也加ステファン:桜美林大学陸上競技部駅伝監督。1992年から96年にかけて山梨学院大学に在籍。出雲全日本大学選抜駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝に出場し、渡辺康幸(早大・当時)としのぎを削った。

――当初はチームとしてはあまり機能していなかったと。

そうですね。立ち上げ期ということもありますし。だから「私もしっかりしないといけない」という方に比重が向きやすかったように思います。プレイングでしたけど、「走ってる場合じゃないぞ」というのも正直ありました。

――どんなところに苦労されたのでしょう?

学生たちとのコミュニケーションです。寮にも住んでいたのですが、選手を見るということが物凄く大変でした。選手、マネジャーの育成、監督とのコミュニケーション、スカウティングといった組織に関わることはゼロからのスタートでしたし、私自身の競技もあって。もう大変でしたね。

――学生ランナーを見ていて如何でしたか?

ある程度能力のある選手を集めてのスタートですが、当時はまだ個々人の〝甘さ〟が強かったですね。考えて取り組めないというか。言われないとやらないというか。私も日清時代に自由にやっていて、真也加さんも自分で考えて競技していた人だった。指導側が自主性の強い人間だったんで、自由にやらせていたというのもあったのですが、最初の方はもう少し枠を用意してあげても良かったかもしれません。「最終的には自分で考えて取り組まないとダメだよ」という話は学生にしていたんですが、考えきれていなかったいうか。

「元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方」の画像
Photo by Naoto Yoshida

桜美林大学の最初期を支えた後、2017年から治郎丸さんはラフィネに移籍します。ここでも肩書きはプレイングコーチ。とはいえ、実業団チームということもあり、それまでの高校生や大学生とは異なります。サポートする対象は、多くが競技歴を重ねてきたランナーたち。コーチングというよりは、ハッパをかけることが主な役割です。

「選手に言うことは『プロフェッショナルでいろよ』ということに尽きますね。お金をもらってやっているんだから、結果を出してくれ、と。それは、日清にいた時と一緒です」

治郎丸さんの足跡から抽出される言葉は、やはり〝紆余曲折〟なのかもしれません。しかしながら、俯瞰してみると決して回り道をしているわけではなく、前後の経験が関連し合っていることが見て取れます。アスリートとコーチ。言うなれば鳥の目と虫の目。これまでの経験で培ってきた〝目線〟を生かして、治郎丸さんは、新たなチャレンジにも取り組もうとしています。

〝代表理事〟としての顔

『一般社団法人 国際スポーツライフタイム協会』。2017年3月に設立されたこの団体で、治郎丸さんは代表理事を務めています。サイエンス、メディカル、栄養学等、各領域のプロフェッショナルで構成され、アスリートの包括的なサポートを目的としています。

「(設立にあたって)最初に思ったのはセカンドキャリアです。スポーツ選手は、引退後に困る人が多い。そこでセカンドキャリアをサポートする団体ができたらいいな、と思ったんです。その他では、ジュニア期のアスリートをサポートできたらいいよね、とか。その考えの元に賛同した人が集まって、という形ですね。とはいえ、まずは足下のできることから。メンバーのスキルを使って、今伸び悩んでいて、何らかのきっかけが欲しい選手のサポートから始められたらと考えています」

設立後まもないということもあり、本格的なアクションはこれからということですが、アスリートのキャリアにおける課題改善において、軌を一にするメンバーが集まっています。治郎丸さんはそこに、アスリートの代表という形で参画していることになります。

〝わらじの3足目〟である団体の顔としての存在。「まだまだ下準備。私もまだ競技への比重が大きくて」と言うように、ゆくゆくはアスリート、コーチに続く第3のキャリアでの奮闘が伝わってくるかもしれません。

「元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方」の画像
Photo by Naoto Yoshida

「ぶっちゃけ安定したい」。それでも……

最後に、治郎丸さんの生き方について聞きました。

――治郎丸さんの経歴は旅に似ていると思うんです。様々なタイミングにおける指針のようなものはありましたか?

巡り合わせに従っているという感覚ですかね。これまでの変化は偶然でもないと思っていて、人との出会いも含めて、運命なのかなと思います。それぞれのターニングポイントで、不思議と知人が声をかけてくれたり。その時は、そういうタイミングなのかなと「試してみるか」と思うようになりました。

――その時に意識していたことは?

基本的にはどんな言葉もまずは聞き入れるということは必ずやっていますね。そこから咀嚼して、判断する。人生、人との繋がりで成り立っているようなものなので。

――今後、競技の方はでき得る限り続けて行く予定ですか。

そうですね。この歳(33歳)になって、練習内容とかフォームをもう一度見直しているんですよ。桜美林でプレイングコーチをしていた時から継続していることもあって、それを指導や練習に取り込んでいます。少しずつ成果も出てきているので、しっかり結果を出して、何というか、影響力を持ちたいです。「治郎丸って、ラフィネって、どんな練習してるの?どんなチームなの?」って思わせたいという野望がありますね。そこでの影響力を、スポーツライフタイム協会での活動にも生かしていきたいです。

「元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方」の画像
Photo by Naoto Yoshida

――駒大・大八木監督とは今も話したりはしますか?

話しますね。私がやっていることに対しては「お前の人生だから」という所もありつつ、「もうちょっと地に足つけた方が良いんじゃないか?」と思われてもいるでしょうね(笑)。でも、不安定なレールだけど、乗っかって成功した時は喜んでくれる。「お前さすがだな」と。

――ということは、今の生き方は結構好きなんですか?

ぶっちゃけ好きではないですね(笑)。内心安定はしたいし、楽もしたいじゃないですか。

――それでも結果として旅をしながらという。

そうなんですよ。結局は常に上を見ていたい、チャレンジしていたいというのがあって。現状に満足したくないので、「何かもっとあるんじゃないか」と思ってしまう。でもどこか安定したいという思いも同居しているんですけどね(笑)。

ハーバード・ビジネススクールで教鞭を執るクレイトン・M・クリステンセン氏の著作『イノベーション・オブ・ライフ』には『意図的戦略』と『創発的戦略』というワードが登場します。前者は〝的を絞った生き方〟、後者は〝突然目の前に現れた選択肢〟と言い換えることができます。

自分のキャリアプランを1から10まで描いている人はおそらく少数派で、それも万事うまくいく可能性は高いとは言えないのも事実。〝どんな人間になりたいか〟が人生の選択のものさしになります。

創発的人生を歩んできた治郎丸健一さん。これから、どのような人生の選択をしていくのでしょうか。3足のわらじを履くアスリートの今後から目が離せません。

「元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方」の画像
写真提供・治郎丸健一

プロフィール

「元・駒大の箱根駅伝アンカーが選択した“不安定な人生”との向き合い方」の画像

治郎丸健一(じろまる・けんいち)

1984年10月1日生まれ。鳥取県倉吉市出身。由良育英高校(現・鳥取中央育英高校)在学中、全国高校駅伝3区8位。駒澤大学入学後は4年次に箱根駅伝初出場(10区5位)。フィニッシュ前、泣きながら走ったとのことで話題に。卒業後は一度競技から離れるも、駒大時代の先輩に誘われて、市民ランナーとしてランニングを再開。その後、日体大長距離競技会で5千メートルを14分42秒で走り、大分東明高校陸上競技部のプレイングコーチとして道が開ける。大分時代は九州一周駅伝に4度出走し、すべて区間賞。都道府県駅伝に大分代表のアンカー(7区)で出場し、7位入賞の立役者に。上記の活躍で多数の実業団から声がかかり、最強メンバーの揃う日清食品グループへ。ニューイヤー駅伝出場、チームキャプテン等経験を積む。退社後は桜美林大学陸上競技部にて、真也加ステファン監督のもと、プレイングコーチを務め、自らも積極的にレースに出場し、実績を残す。現在はラフィネ陸上部・男子プレイングコーチの傍ら、一般社団法人国際スポーツライフタイム協会代表理事。マラソンランナー、ランニングコーチ、代表理事の3足のわらじを履く異色のアスリート。

吉田直人が書いた新着記事
RUNTRIP STORE MORE
RANKING
「HEALTH」の新着記事

CATEGORY