2017年3月17日

ランニングと小説書きは“対極にない”、村上春樹氏が語る「走る理由」

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どうして人は走るのでしょうか?便利な世の中になったこのご時世、人は走らなくても快適に、幸せに生きていくことができます。走ると疲れるし、身体のどこかが痛くなったりします。それでも、私たちは走ってしまいます。

走ることについて語るとしたら、みなさんは何を語るでしょうか。今回は、村上春樹さんが記した『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋)を参考に、「なぜ人は走り始め、走り続けるのか?」ということを考えていきたいと思います。

なぜ人は走りはじめるのか?

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そもそも、どうして人は走り始めるのでしょうか?学生の時から走ってきた人、社会人になってから走るようになった人、それぞれに様々な理由があるでしょう。

村上春樹さんは、著書『走ることについて語るときに僕の語ること』の中で、走り始めた理由をこのように書いています。

「ところで、専業小説家になったばかりの僕がまず直面した深刻な問題は、体調の維持だった。もともと放っておくと肉がついてくる体質である。これまでは日々激しい肉体労働をしていたので、体重は低値安定状態に抑えられていたのだが、朝から晩まで机に向かって原稿を書く生活を送るようになると、体力もだんだん落ちてくるし、体重が増えてくる。(中略)これからの長い人生を小説家として送っていくつもりなら、体力を維持しつつ、体重を適正に保つための方法を見つけなくてはならない。」

村上春樹さんは、体調管理のためにランニングを始めました。これもまた1つの理由です。同じように体調管理やダイエットのために走り始めた方もいるでしょう。

しかし、小説家がランニングを習慣にして、フルマラソンにも出場している、というと不思議な感じがするかもしれません。そのことについて、村上春樹さんはこのように述べています。

健康なるもの(ランニング)と不健康なるもの(小説を書くこと)は決して対極に位置しているわけではない。対立しているわけでもない。それらはお互いを補完し、ある場合にはお互いを自然に含みあうことができるものなのだ。往々にして健康を志向する人々は健康のことだけを考え、不健康を志向する人々は不健康のことだけを考える。しかしそのような偏りは、人生を真に実りのあるものにはしない。

つまりは、ランニングは人生に均衡をもたらし、人生を豊かにするものということになります。もともとの仕事が運動から離れているからこそ、ランニングは更に意味を持つのでしょう。

もしかしたら、私たちは人生に「落差」を求めているのかもしれません。時には机で仕事をして、時には外を走って、時には友人と一緒に笑って、時には映画を見て涙を流して。これらの「落差」が人生を豊かなものにするのであれば、これだけ走ることに魅力を感じる理由もわかるような気がします。

もちろん、心地よいと感じる「落差」は人それぞれです。誰しもがランニングを楽しく感じるわけではありません。そういう人がいることも理解した上で、普段走らない人に対しては、無理強いはせず、けれど「一度走ってみたら楽しいかもしれないよ?」という風にちょっとだけオススメしたいものです。

なぜ人は走り続けるのか?

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ランニングを始めている人はたくさんいます。しかし、途中でランニングを断念してしまう人が少なくないのも事実です。走り続けられる人とそうでない人の差はどこにあるのでしょうか。ここでは村上春樹さんが走り続ける理由を参考にしながら考えていきたいと思います。

村上春樹さんも、一時期はランニングから離れてしまった時期があったそう。北海道で開催されたサロマ湖100kmウルトラマラソンを完走したことで、何かが切れてしまったと語っています。

フル・マラソンのタイムは走るたびにじりじりと落ちていった。練習もレースも、多少の差こそあれ、すべては同じことの儀式的反復に過ぎなくなっていった。それは以前のようには心を震わせなくなった。レース当日に分泌されるアドレナリンの量も、目盛りひとつ分減ったみたいだった。

そして、ランニングに力が入らない状態の事を村上春樹さんは「ランナーズ・ブルー」と呼びました。このような経験は、ランニングでもそれ以外のことでも経験があるのではないでしょうか。何故かわからないけれど力が入らない、何となくやる気が出ない、今までの自分がどこかへ行ってしまったみたいだ、と。

こうなってしまった時、多くの人は無理に頑張ろうとしたり、逆に諦めてしまったりするでしょう。村上春樹さんも、一時はランニングから離れて、水泳や自転車へと移っていきました、しかし、ある時からまたランニングへの情熱を取り戻し始めます。そのときの記述を見てみます。

正直なところ、僕にはよくわからないのだ。どのような理由と経緯をもって、「ランナーズ・ブルー」が僕の身にもたらされることになったのか。そしてどのような理由と経緯をもって今はそれが薄れ、消えていこうとしているのか。その説明はまだうまくできそうにない。あるいは結局のところ、こう言い切ってしまうしかないのかもしれない。それがたぶん人生なんだ、と。

私たちは、自分のことを知っているようで知らないのでしょう。しかし、それも人生。全てを知ることができないのが人生、全てに理由や原因を求めることができないのが人生、そしてそれらを受け入れることが人生なのでしょう。

もし、ランニングへの情熱が消えてしまったからといって、人生が終わってしまうわけではありません。そんな自分を受け入れた上で、どのように生きていくのかが大事だと思います。思うようにランニングができない自分を責めるのではなく、またいつかやる気が戻ってくるさ、と気軽に受け入れられるようになりたいですね。

そして、最後に村上春樹さんの走る理由について見てみましょう。一見すると、ランニングは無益なものに思われてしまうことに対して、このように答えています。

効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

本当に価値のあること、それは効率が悪くとも、無益に思われようとも、じっくりと続けたことの先に待っている何かなのかもしれません。ランナーは、その見えない何かに向かうために、目の前に見えている道を一歩一歩進んでいるのでしょうか。走るということを続ける理由は、結局のところわからないのかもしれません。

しかし、走り続けることで見えてくる何かがあるのであれば、それを目指していきたいとも思えます。走り続けているうちに見えてくるものが走り続けている理由になる、逆説的ではありますが、それも人生なのでしょう。走ってきて良かったと思える人生にしたいですね。


 

村上春樹さん著の『走ることについて語るときに僕の語ること』では、こちらで取り上げた内容以外にも、真夏のアテネで42kmを走ったことや、日々のランニングで感じたことが綴られています。ランニングの真髄を感じることができる一冊、ぜひ読んでみてください。

「箱根駅伝について語る時に、元箱根ランナーが語ること」とは?

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平池拓也が執筆した記事

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