箱根駅伝の珍事、道を大胆に間違った「寺田交差点」はなぜ生まれたのか!?

冬のスポーツの代名詞とも言える箱根駅伝。開催まで残り1カ月と少しとなりました。これまで、数々の名シーンを生んだ同大会ですが、2011年大会もインパクトがある大会でした。ここで生まれたのが「寺田伝説」。皆さん、思い出しましたでしょうか?

この珍事とも言える「寺田伝説」は、國學院大の1年生アンカーである寺田夏生さんが起こしたもの。まずは、同シーンをふり返ってみましょう。

例年のように白熱するシード権争い。2011年大会も例外ではありませんでした。鶴見中継所(復路)で、第9区走者奥龍将さんから襷を受け取った寺田さん。その時の順位は11位でした。また、8位の城西大から13位の山梨学院大までの差は、わずか1分9秒。その間に、帝京大、國學院大、日本体育大、そして、いまや優勝候補にもなる青山学院大がひしめいていたのです。この6大学のうち、シード権を得られるのは3大学のみ。文字どおり、熾烈な戦いとなったのです。

寺田さんは持ち前の粘りを発揮。一時は8位まで順位を上げました。そんな中、帝京大と山梨学院大が脱落。シード権争いは4大学にしぼられました。國學院大の前田監督は、混戦になっては勝負が見えないために、寺田さんにロングスパートを指示しましたが、当人はまったく動き出すことはありませんでした。

当時のことが、書籍『箱根駅伝勝利の名言』で詳しく紹介されています。

「箱根駅伝の珍事、道を大胆に間違った「寺田交差点」はなぜ生まれたのか!?」の画像

実は走っている最中に順位が激しく入れ替わったため、寺田さんは、いったい何位に入ればシード権なのかがわからなくなってしまったようです。また、監督が指示をしていることは理解していたようですが、肝心の内容が伝わらなかったとのこと。

「監督が何か言っているのはわかっていたんですが、どの学校の監督さんも怒鳴っているので、どれがどれだかわからなかったんです。しかも沿道の声援がすごくて、自分はもう、ゴール前の勝負でいいやと思っていたんです」(同書より)

どの監督も必死で指示と檄を飛ばす。シード権争いの激しさが伝わってくるコメントですね。また、一方で寺田さんにはまだ余裕をもって走っているようにも映ります。寺田さんの考えでは、この4人の中で1番になればシード権は獲得。そのためにゴール前でスパートをかけたのです。

それが、問題のシーン。

ゴール地点より120m手前でテレビ中継車が右に曲がったのをきっかけに寺田さんがスパート。狙い通りのスパートが決まったかと思いきや、周囲からスッと人の気配がなくなりました。そうです、寺田さんは、中継車の後を追ってしまい、コースを間違えてしまったのです。ロスした距離はおよそ30m。当然、順位は11位に後退してしまいました。

「『あのときは、真面目に終わったと思いましたよ。』とあとでふり返った寺田は、懸命に他の3人に追いつこうとしたが、その間にも『下見だけじゃわかんないよ、中継車だって曲がったよ』とどこに怒りをぶつけていいのやら、必至に走った」(同書より)

幸いなことに前を走る城西大の選手が疲れていたのと、それを追い越すための距離が残されていました。寺田さんは再度スパート。城西大を抜いて3秒差で10位に入ったのです。ゴール後に周囲が喜んでいる姿を見て漏らした一言が、「危ねえ」。この率直なコメントがマイクに拾われており、当事者の実感がこもったシーンとなりました。

なぜ、このような間違いが起こったのでしょう。同書で、寺田さんが10区を走ることが決定したのは年末だったと明かされています。コースの下見も直前となってしまい、町の表情としては乏しい大手町は、目印を見つけるのが難しいと著者の生島さんは分析。確かに、ミスが起こっても仕方の無い状況ではあったんですね。

「箱根駅伝の珍事、道を大胆に間違った「寺田交差点」はなぜ生まれたのか!?」の画像

その後、寺田さんは、翌年度の箱根で5区を激走。13位で襷をもらい4人抜きの9位でゴール。3年時、4年時は花の2区を走りました。現在は、JR東日本に入り、ランニング人生をおくっています。

当時、寺田さんが間違った交差点は、誰が呼んだのか「寺田交差点」と言われるように。コースを思いっきり間違えたものの、しっかりとシード権を獲得できたことで、今での良い思い出として箱根ファンに語られています。

さて、この珍事を超えるようなインパクトのあるシーンが生まれるでしょうか。今から楽しみですね。

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